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【なぜ】サディズム・マゾヒズムの心理 3
514:兎 :2009/09/06(日) 22:14:27 [sage] 苦痛や羞恥が「本当の自分」(自分の正体)ではないのです。 しかしMにとって重要なのは、感じたままを、 いかに「ありのまま」表現出来ているか。 制限された自分ではないか。 痛みに愉悦する自分というのも、確かに「本当の自分」ではありますけれど、 (痛み=快感、という脳と体の回線については、体感としては知っていてもよく解りませんので) 心理学的(?)視点からみるのであれば、それは問題のすり替えであるように感じます。
515:咀嚼(中) :2009/09/08(火) 00:09:01 [sage] >兎氏 濃厚だ。。消化のための時間を暫し。。 (メモ >>498 >>507-509 >>511-514)
516:咀嚼(中) :2009/09/08(火) 20:39:49 [sage] >>507 (1) 最近テレビタレントが、Mであることを自己肯定し公言するケースが増えている。 彼・彼女らの内部でも「本当の自分」は鞭打たれ卑しめられている自分、なのだろうか? もともと人前に自分を晒すことで生活しているわけだから 一般人と同一線上で考えるわけにはいかないかもしれないが。 >マゾヒストである部分からの反発 >Mであるのに「人間」として生活している こういう感覚は「主従SM」という形式を宗教化している感じがする。 しょせん「主従」といったって個人間の遊び (法律的にもリアルな階層関係にも根拠のない対幻想の中だけででのイリュージョン) にすぎないのに、それを過剰に観念の中で神聖化させる、 不可能であるに決まっているのに、自分が「良い奴隷」ではないことを しきりに反省し、エゴマゾなどという言葉に悩まされたりする。 そういう転倒した印象を、主従SM信奉者(特に女性)に感じることは多い。 たとえば連合赤軍事件では、「共産主義化」が足りないと批判し合い 最後には「共産主義化」するための総括(リンチ)が始まった。 社会から閉ざされた規律・倫理は、外部不在の中(内部)ではエスカレート(倒錯)しやすい。 共同性の中にはいった時、人は誰だって、 個人としての自分とは異なった位相に移行する。 それは当たり前のことだ。(対幻想と共同幻想の位相の違い) 特に“公”の元では“私”を捨てさせる圧力の強い日本はそうだ。 (日本人は皆マゾヒスト、という論文もあるらしい。>中久喜雅文)
517:咀嚼(中) :2009/09/08(火) 21:37:55 [sage] >>507 (2)&>>508 ひとつは「恥」のあり方ではないか、と思ったりする。 ヨーロッパでは、マゾヒストであることを逆に誇ってみせる女性論客がいる。 日本では、マゾヒストであることは「格好悪いこと」だという感覚が強い。 (だから、お笑い芸人は平気で告白できる) 衣服をまとうことが慣習化されている社会では人前でのヌードは「羞かしい亊」であるが アマゾンの裸族たちでは、それは単なる「当たり前」の日常にすぎない。 露出(人前でのヌード)は、日常からの解放(非日常感)のシグナルになる。 ストリーキングではそれは平和的な反抗声明、仲間内を目当てにした仲間意識の確認として行われる。 マゾヒズムの行為としての露出は“強制”が条件になる。 実際に人目にヌードが触れる必要は必ずしもない。 行為者たちの中で、自分たちの対幻想が社会から隔絶されていることが確認できればいい。 衣服をまとったままの「首輪姿」で歩く、でも露出が成立する。 恥と非日常(社会からの断絶)があればいい。 それは生活という日常からSMという非日常空間へ“引き籠もる”イニシエーションでもある。 大事なことは、社会から閉ざされた特異な約束事の空間(SM)にいるという認識だ。 主従SM者たちが、男尊女卑や女尊男卑の封建制度への逆行を主張するとき、 その錯誤は、対幻想と共同幻想の区別がついていないことを意味する。 ものすごく、見当違いのことを書いてるように見えるかもしれないが、 [自分が二つに分裂するような苦痛]もまた、 対幻想の片方である我、と、 共同幻想の中にいる我、とは位相が異なる(異なっているのが当然)ということが うまく掴まえられていないところから来るような気がしたもので。。違和感があればどうぞ。 (メモ)>>496 >>498 >>509 >>511-514
518:没個性化されたレス↓ :2009/09/09(水) 02:16:25 >>517 対幻想の片方である我、と、 共同幻想の中にいる我、とは位相が異なる(異なっているのが当然)ということが うまく掴まえられていないところから来るような気がしたもので。。違和感があればどうぞ。 吉本が、対幻想と共同幻想の位相の矛盾ってことで 父親と息子で、なおかつ上官と部下。 こうした二重の役割を負わされると葛藤が起こる。 そんな例をあげていたた・・・という記憶がある(出典は忘れた)。 でも[自分が二つに分裂するような苦痛]というのは、 共同幻想と対幻想という以前に「自己幻想」があるわけで たいていの人は、ネトウヨとかマルキストとか新宗教の 信者のように共同幻想に没入したり ストーカーやラリ男・ラリ女のように対幻想に没入したりすることで 自己幻想の不安定さを緩和しようとするのが、フツーじゃなかろうか? SMってのは、あくまで[ズレの非常に大きな]対幻想 そう考えているのだが・・・
519:咀嚼 :2009/09/09(水) 21:52:02 [sage] 俺は対幻想を “性“を媒介にした関係と捉えている。 かたや共同幻想では“性別”は捨象される。 だから父親と息子(男と男)の関係は、上官と部下(無性)の関係と共存しうる。 吉本が共同幻想論でしめした対幻想と共同幻想の矛盾例は 穀母(神)として選ばれ部落内の女性が、祭りの中で殺害されて皮を剥がれ 穀母の息子(神)に選ばれた男性のからだに、その皮をかぶせる、という例だ。 引用すると 「殺害される穀母もけっして対幻想の性的な象徴ではなく、共同幻想の象徴である。 これらの女性は共同幻想“として”対幻想に固有な〈性〉的な象徴を演ずる 矛盾 を おかさなければならない。 したがって自ら殺害されることによってしか演じられない役割である」 つまり、〈母〉という性でありながらそれ自体で共同幻想であるというのは矛盾であり したがって、一度母〈性〉としては殺害されて、ようやく、共同幻想となる。 「上官と部下」は性を捨象した関係(共同幻想)だから、親子関係(対幻想)と“絶対矛盾”はおこさない。 親族企業などではありふれた現象だ。息子の側に対幻想の甘えがあれば 自己幻想の中で葛藤はあるだろうが、対幻想と共同幻想の矛盾ではない。 文脈を勘違いしてるか、 あるいは対談相手のいったことを 吉本が言ったと記憶がすり替えられてるのでは? (この部分はスレチなので、別レスにしておく)
520:咀嚼 :2009/09/09(水) 21:55:10 [sage] >>518 >「ズレの非常に大きな」対幻想 ズレというのは何のズレなんだろう?
521:咀嚼(中) :2009/09/09(水) 22:01:52 [sage] >>517は言葉足らずのようなので補足。。 >人権を剥奪された人間 これは対幻想(性の関係)の中に無性の共同幻想をむりやりもちこんでいるので 矛盾を起こす。兎氏の女〈性〉が捨象されているから。 質問だけど、 日常生活で引き裂かれた感覚になるとき、相手が女性でも男性でも同じだろうか? 相手が女性の場合は相手が男性の時より軽いんではないかというのが 「理屈」の上での推論なんだが。
522:兎 :2009/09/09(水) 22:21:18 [sage] 思いもよらぬ方角から入ってきたメスに目から鱗です。 私の一方的な視野では乱雑に散らかしておくことしかできなかったものが、すっと整頓されたような。 けれどまだ全体から受ける印象がクリアになった感じがするだけで、 私のものとして整理できておりませんので (もしかするとやっぱり散らかっているかもしれない?)、 少し時間をください。
523:咀嚼(中) :2009/09/10(木) 22:00:59 [sage] いままでのは>>507-508について考えた部分なので その後の部分に関してはまだ未消化。 (メモ)>>496 >>498 >>509 >>511-514 俺としてももうすこし時間がほしい
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