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[[[[[♪音楽はどこまで「言語」か♪]]]]]
1:虚無好き :04/05/16 00:44 [sage] 音楽を、言語学からの視点で語るスレ。(じつは雑談) 音声資料(ネタ)は、随時下記のurlにアップ。 ttp://www.geocities.jp/kyomsky2ch/
663:虚無ソキー :2009/02/14(土) 15:30:22 0 [sage] 暑ーーー。 存在動詞はヨーロッパ的知ではたいへん重要なもので、文法というより思考の分析に近かった 一般文法(PR文法)でも中心的な役割を担った。現在でも論理学的真を定義するものであり、 また神学的にも神の業績を象徴するものである。そのようないみで、 「真空の存在」は、神のみ業の不完全性を意味するものとして忌み嫌われたのであった。 現代哲学者でさえ、「存在は存在し無は存在しない」とか、じつにどうでもいい循環から 抜け出せなかったりする。それはいいとして、このような話を再びしたのは、 最近『ハムレット』の、to be or not to be, that is the question について書いたから。 この前半、引用部分というかCP部分というのは、論理学的にいえば真か偽か、に相当し、 ひょっとしたら、このブンは、<問い>というものの、一般的定義としても解釈できるのではないかと 考えたからである。もちろんこの解釈をフォローする翻訳は全然ない。 もしこれが問いの一般的属性をのべているものだとしたら、もっと簡単に言えば、 「イエスかノーか、それが質問というものである」、という解釈になる。あるいはもっと文学的にすれば 「然りや、否や、それが問ひである」みたいな。 ある問いを究極的に考え抜いていけば、いっしゅの究極的なイエスか、究極的なノーか、 に行き着かざるを得ない、そういう心理的場面を想定したのかも知れない。 そしてそのような「一般的な」含みを持たせつつ、具体的な自分自身の問いについて独白する、 わたしだったら、そのように解釈するにゃーと思ったりする。 それにしても暑ーーー。これからこのすれでは、「絶対に歌になりそうにない」レスに、 あえて作曲してしまうという不毛の試みをしたいと思うにゃ。ま、前からやりたかったんだけど。ほんにゃまた。
664:虚無ソキー :2009/02/16(月) 20:36:40 0 [sage] わたしは遅筆なので、またしてもサルトルの『存在と無』の話になってしまうのだにゃ。 とにかく、たまたまハムレットのセリフをとりあげただけなのであるが、<ネ>がバカブンケーであるわたしには、 かってに思想のほうが湧き上がってきて、非常に苦痛である。だがしかし、『存在と無』で、 <問いの可能性>が原理的に云々されており、わたしはその部分は、サルトルが<情報>という概念に行き着かなかったことによって、 非常に煩雑になっていると思うのである。それはともかく、あまり話題が拡散しないように… やっぱり引用しておくのがいいかなと思う(´・ω・`)。 「…あらゆる問いは、本質上、否定的な答えの可能性を立てている、ということをわれわれは見た。… いいかえれば、それがひとつ『無』として自らを開示する可能性はつねに開かれたままになっている。けれどもひとつの存在者が <無いもの>として自らを開示する可能性がつねにあることをわれわれが予期しているという事実からして、 あらゆる問いの前提には、われわれが所与に対して一つの無化的後退をおこない、その結果、この所与は存在と『無』とのあいだを動揺する 一つの呈示となる、ということがふくまれている。それゆえ、かんじんなことは、問いを立てる者が、 存在を構成し存在をしか生み出しえない因果系列から、はずれる可能性をいつももっているということである」 サルトル全集『存在と無』106p(尋問書院) で、じつのところ、ここで「無」といわれていることは、ある<問い>に対して、「そんなものはない」と、 ネガティブな判断に行きつく可能性のことで、そういう可能性が無ければ、そもそも<問い>などは発生しないのである。 ここでいう「問い」というのは、事実上われわれが発する「質問」にとどまらず、 われわれが日常生活の中でとっている態度が、つねにあるしゅの問題解決のタスク処理、というような形式をとっており、 それゆえに、たとえば、もっとも初歩的な問題として、あるタスクが成功したかどうか、というような<問い>には、 われわれはつねにさらされている、ということができる。と、サルトルはいいたいのである。 そしてこれが、つねに<無>に付きまとわれているような人間の意識、というイメージを作り上げる。 To be or not to be, that is the...
665:虚無ソキー :2009/02/16(月) 20:39:25 0 [sage] > 存在を構成し存在をしか生み出しえない因果系列から、はずれる可能性 ここのところは重要である。わたしは、これは人間固有の問題ではないと思うにゃ。 ここでいわれている問題は、外世界を持つ一つのシステムの問題として解釈できると思うのだのにゃ。つづく。
666:虚無ソキー :2009/02/24(火) 23:34:46 0 [sage] 日曜日から、4拍子の『荒城の月』を3拍子に無理やり アレンジしなおしたものを作ったが、いやはや… 何かのアクシデントで曲のデータが壊れてしまうことがあるが、ちょうどそれを 再生したようなかんじ。 楽曲構造をいわば破壊したのだから、そうなるのは当然だと思われるかもしれないが、 いやじつは、何か新しいことが起きるのではないかと期待してもいたので、がっかりあるにゃ。 ちなみに3拍子に変えるといっても、あの閉店のお知らせで流れる「ほたるのひかり」のように、 音符の長さを変えて、小節の頭の位置を変えないようなアレンジではなく、 4/4 はるこー|ろーのー|なはのえ|んーーー を、 4/3 はるこ|−ろー|のーは|なのえ|んーー というように分割したのである。 まあ、えられた結論は、旋律の記憶は拍節構造を伴って形成されるもので、 その構造をぶち壊すと、旋律の認識事態が極めて困難になる、という、さほど目新しくもないもの。 あるいみ、理論的にはかろうじて容認されるものの、きわめて不安定な曲というものも 「実在するのだ」、というようなことを再認識した。生成のアクブンのようなものかにゃ。 でも、完成したら、またageるのにゃ。
667:虚無ソキー :2009/03/10(火) 02:14:37 0 『荒城の月』@3拍子できた http://www.geocities.jp/kyomsky2ch/kojo.mp3 何を意図したのかというと… それは、楽曲の心的構造が、いつのまにか楽譜の視覚情報における「群化の構造」にすりかわってしまっている ような気がしたから。じっさい、まとまった旋律の構造は、まとまった楽譜の音符の視覚上の群化と区別するのは非常にムズカシイ。 まあそういうわけで、『荒城の月』の旋律の、ピッチと音の長さの情報を変えないまま、拍節構造だけ変えて、 旋律が同一であることを知覚できるか、また、階層構造が保存されるのか、といった趣旨で作った。 結果的にはたいへん不安定な曲。わたしの内観では、別の旋律に聞こえる。 (ふつうの曲を聴いて3拍子か4拍子かわからないひとには、ただのかわったアレンジにしかきこえない)
668:こさかな :2009/03/28(土) 06:36:01 0 [sage] ききますた。主旋律のリズムと演奏のリズムが違って聞こえたのみならず、主旋律と演奏のメロディが独立して 進んでいるようにきこえますた。
669:虚無好き@失明中(* _ *) :2009/05/27(水) 17:05:25 0 [sage] よかった…dat落ちしてなかった。 > 主旋律と演奏のメロディが独立して バックグラウンドの演奏?まあともかく、主旋律が浮いて聞こえたとゆーことだと思う。 で、わたしのアタマのなかでも、この曲の伴奏と旋律を「ドッキング」(死語か)させることができず、 この曲は、打ち込みながら、その場でアレンジしていくというかたちになったのであった。 通常、打ち込みの前に、あるていどアレンジのアイディアができあがるのだが、この曲の場合、 旋律と伴奏を、<同時に>脳内イメージすることが出来ないため、 打ち込み内容からフィードバックさせつつ、場当たり的になった、ということである。 これは、けっこうめずらしい。 だから何かというと、旋律の記憶は、アナログレコーディングのように無構造で暗記されるわけではなく、 小節のアタマのようなものがマーキングされながら、構造的に解釈され記録されるのであろう、といういちおうの 推定が出来るのである。で、この推定は、<視覚イメージ>を経由せずに、聴覚イメージのみから 推定されたのである、このばあい。 どうでもいいけど、保全のためageておくのにゃ。
670:虚無好き@失明中(* _ *) :2009/05/27(水) 22:28:52 0 [sage] あれ…ageてなかった○┼< (ドテッ まあいいにゃ。
671:虚無好き@失明中(* _ *) :2009/08/13(木) 18:04:17 0 [sage] いくつかブログやtwitterなどを試してみたが、どうせ独り言を書くのなら、 この、もはや10年経とうとしている「2ちゃんねる」で十分なのではないか、と思うのであった。 (わたしが始めたのは2001年なので、10周年にはまだしばらく間がある) greeという携帯コミュニティサイトにも誘われたけど、これはもはや全然世代的に違うのにゃ。 しかしこう、この「音楽はどこまでなんとやら」というスレほど見事に役割が終わってしまったスレというのは なかなかにゃい。 もし何事かが不可能であるならば、その不可能であることを証明すれば、 あながちムダなことをしたともいえないだろう…。 ひとつのクルーは、<データ>とその<解釈関数>を中立的に分離して記述し、 音楽であるという基準がどこで発生するのか、を予断なく分析することである。つまり、 早い話、あるデータを「音楽のデータ」としてみなした瞬間に音楽が発生してしまうので、 もっと視点を根源的なところに置かないといけない、という話である。 そして、さらに重要なことには、言語の発生論においても似たような事情がみられるということである。 このようなナイーブな起源論が、無限後退をうむのみ、というのはすでに指摘されている。 (解釈されたという事実から遡行して、解釈されたものを逆生成してしまうから。ほんらいこれが「後付け」と呼ばれるものの正体である。)
672:名無し象は鼻がウナギだ! :2009/10/07(水) 22:42:34 0 [sage]
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